紙がくれるもの

紙の本を買うか電子図書を買うかという議論はいまだ決着しない。新聞と雑誌、そして紙幣も同じである。まだまだ紙は情報を伝える媒体として求められている。

媒体として以外の紙はなおさら不可欠である。ティッシュ、トイレットペーパー、紙おむつ、段ボール箱。紙を豊富に使える生活というのは、人の文化レベルをあげてくれる。リサイクルの技術がそれを支えていることは言をまたない。

媒体としての紙を見たとき、乱暴に扱えるかどうかがひとつの分かれ目である。破ってとっておけるか、メモや線を引けるか、折り曲げておけるか、気に入らないものはくしゃくしゃに丸めて投げられるか。意外とこの行動が重要である。没になった原稿を、いちいちタブレットを二つ折りにしていたのではわりにあわない。陶芸家が失敗作を放り投げるのは自らへの戒めだと私はみている。

紙は想像力をくれる。情報を載せた紙を実際に動かすことが、思ったよりも脳や心に影響を与える。福沢諭吉の書かれた紙(早い話が10000 円札)がたくさん積まれているのを見ると、素直にうらやましい。スマホひとつの画面では想像力に限界がある。クレジットカードや電子マネーを使いすぎるのはこのためだ。電子決済を進めるにはイマジネーションを鍛えなくてはならない。

もともと金だったものを紙に落としこんだのは間違いなく発明である。なら紙を電子媒体に落としこむのも発明に違いない。ただ、その革命はまだ来ていないようである。

情報社会と私たちを繋ぐのは、まだ紙だ。私たちの想像力が発達するか、スマホの画面がまるで現実世界のように拡張されない限り、紙は私たちに想像力をくれる。