所属する幸せと薪

所属で感じる幸せがある。ファンがファンクラブをつくるのはひとりでは感じられない喜びを知っているからだ。新しい所属は心の中にこれまでなかった火を灯す。

所属で灯った火には徐々に落ち着いて消えてしまうものと、いつまでも心に残り続けるものがある。幸せの火種をいつまでも置いておけるかは、まわりからくべてもらえる薪による。

所属の火にくべられる薪とはコミュニケーションである。火が絶えない頻度でコミュニケーションという薪をくべれば、火種はだんだん大きくなる。大きくなった炎は新たに加わった仲間に引き継がれていく。この連鎖が所属の幸せの本質である。

組織が周年の記念を祝うのは薪をくべる機会を忘れないようにするためだ。火が灯ったときの気持ちを思い起こし、お互いが語り合うことでそれぞれの火がまた続いていく。

親が子供を褒めたり叱ったりするのも、薪をくべる行為のひとつだ。子の親に対する所属は生まれながらに決定されている。親は自身から分けた火を絶やさぬよう懸命に薪をくべる。しかし残念ながらすべての親が上手に薪をくべられるわけではない。

本来、所属は窮屈なものだ。息苦しい親戚付き合い、友達のいない学校、助けの来ない家庭。酸素が欠乏するほど窮屈な思いをさせるのは所属と所属せざるを得ない環境である。

窮屈さは所属を変えることで脱出できる。脱出できないのは家庭である。どうあっても親を変えることはできない。多くの子が反抗期を経て自分の所属を認める。

ある地方都市からきた年上の人は「田舎を歩くとすぐに知っている顔に会うんです。都会は逆に僕のことを誰も知らない。都会を歩くと、僕はそのことに心地よさを覚えるんです」と話してくれた。湿った薪ならばくべないほうがまし、といったところだろうか。

家庭を除いて現代は所属する自由が広く認められた。「親と上司は選べない」と言われたが、働き方も、住む場所も今や自由自在である。インターネットの普及によってまさに所属は自由化された。多くのコミュニティが門戸を開いている。いくらでも所属できるし、好きなときに脱出できる。

所属の幸せはいつでも手に入れられるようになった。次は薪が必要だ。

走れシェア自動車

イカーが夢だった時代よりも、自動車は使命を全うしている。カーシェアリングによって、自動車は1人の人間が所有するよりもはるかに多くアクセルを踏まれ、タイヤを回転させ、メーターを進ませる。所有されている自動車よりも、共有されている自動車の方が走っている。果たして自家用車は走っていない。

日常の移動に車が欠かせない「車社会」では自動車の所有が必須である。望む望まないにかかわらず、生活していくうえでは義務といってもいい。けれども用途は主に出勤や通学の行き帰りで、それ以外の時間、自家用車は家の駐車場でじっとしている。所有がなかば義務付けられている現実は差し置いて、自動車からしてみれば活躍の機会が限られている「車社会」は本意ではない。

一部の特権階級のみ所有できた自動車が、低コスト生産と自動車ローンの普及により多くの個人にとって身近なものになった。人々はこぞって自家用車を買い求め、日本の経済成長を支えたその動きは、今にしてみれば世の中に過剰な量の自動車を供給したかもしれない。「車社会」はその副産物である。

一方でマイカーが人々に見させた夢は本物である。見知らぬ土地に出かけたり、誰かを乗せて走る喜びは自動車がもたらした新たな幸福だ。所有の時代を経て、いま自動車は共有されようとしている。マイカーの夢は夢のままシェアされて、自動車はその使命をより濃密に果たすことになる。

土曜日の朝、書いて整理する

紙に書いて頭の中を整理する作業は、誰でも経験があるはずだ。作業そのものが好きなのもあって、習慣になっている。土曜日の朝に一週間分まとめて整理する。土曜日の朝が一番ゆっくり時間を使えるからだ。

書き方には少し決まりがある。最初に「いつも心がけていたいけど忘れてしまいがちなこと」を書く。例えば「健康に気をつける」。今週は健康に気をつけて、来週気をつけなくていいわけはないので、毎週書く。他には「挨拶をする」「嘘をつかない」。子供っぽくて恥ずかしいが、わかりきっていても毎週書くようにしている。なので毎ページ同じスペースに同じことが書いてある。

次に今週やることを書く。今は引越しの準備中で、冷蔵庫を空にしないといけないから「冷蔵庫の掃除」と書く。他にも「東京への新幹線予約」「引越し業者に電話」「髪を切る」など。これで向こう一週間、やることが整理される。前のページを見ると、先週やったこと、やりきれなかったことが書いてある。先週できなかったことでまだやる必要があればそれも書く。繰り返すうちに、書く必要があるものとないものがだんだんわかってくる。これが、毎週書いて整理することの大切さである。

同じように、買いたいものをリストにして毎週書いていけば衝動買いがなくなるし、毎週欠かさず書いていればそれが本当にほしいものなのかどうかがわかる。毎週やりたいことを書いて、できなかったことは来週も書いて、できたことは書かない。できてないけど、やりたくなくなったら書かずにノートを閉じればいい。

毎週、書いて整理し続けることで本当の自分がわかる。特に変化が激しい時期は自分を見失いがちだから、特に効果がある。ある程度書いたノートを見返すと、その時の自分を客観視できる。「このときは読書を頑張らないといけないと思っていたんだ」「この時はドローンがほしかったんだ」「今でもバンジージャンプはやりたいと思ってるな」

整理できない週があってもいいし、かならず土曜日の朝でなくてもいい。大事なことは繰り返し書き続けることだ。

瞬間的に自分を客観視することの重要性は認知されているが、連続性を持って自分を客観視することは意外と少ない。連続性を持って客観視する、とは自分の人生を振り返ると言い換えてもいい。土曜日の朝に振り返れば、日曜日からは一歩進んだところにいる。

芸の時代

文芸、工芸、演芸。アートの時代と言いたいところだがあえて芸と言う。アートと芸では少し意味合いが異なる。アートは数ある芸の中のひとつである。

講談社の『日本語大辞典』で「芸」の項目を引くと、
①うえる。草木をうえる。「園芸」
②わざ。ならいおぼえたわざ。「演芸・技芸・無芸」「芸人・芸能」
③芸術。「学芸・文芸」

となる。芸は意外にも幅が広い。

高度経済成長と大量消費社会を経て人びとの関心はモノからコトに移り始めている。消費の対象が物質から精神に変わった。ブログ、YouTube、インスタ、Tik Tok、その他SNSの内容は次第に芸術よりになってきている。したがってこれからは芸の時代である。

これまでも芸の時代はあった。最たるものが江戸末期、文化文政時代である。絵画の葛飾北斎安藤広重をはじめとして美術、文学、音楽、芸能などが大きな発展を遂げた。本居宣長の『古事記伝』、杉田玄白の『解体新書』など、国学蘭学といった学問の発達もこの時期である。間違いなくこの時期の人びとは物質ではなく精神を消費していた。

興味深いことに、この時代、町人は活発だったのに対して、中央である幕府の財政はひっ迫し外圧に苦しんでいた。なんだか今の時代そのもののような気もする。

芸の時代は未来永劫続かない。歴史の揺り戻しで、再び芸に日の当たらない時代が来る。しかし向こう何年かは芸が輝く時代である。

月曜日の朝まで忘れる力

小学生のころ、日曜日の夜は心が沈んだ。学校に行くことが憂鬱で、日曜日の夕方から月曜の朝にかけて私のパフォーマンスは著しく落ちた。嫌なことを前にしたとき、同じ状態になるのはいまも変わっていない。

一つの解決策として、忘れることを思いついた。根本が解決するわけではないがその瞬間を迎えるまで健康を維持することができる。リマインドの逆で意識的に記憶を消し飛ばすのである。いざ直面した時のギャップに耐えられるならどんどん忘れた方がいい。

日曜の夜でなくても役に立つ。飛び込み営業でインターホンを押す瞬間、苦手な客先に電話でアポを入れるとき、大勢の前でプレゼンする前。その瞬間を迎えるまで忘れてしまえばいい。考えるのはインターホンを押してから、電話をかけてから、聴衆の前でしゃべりだしてからでいい。考えても仕方がない。始まってしまえば乗り切れるものの、自分にストレスがかかる事柄を目の前にしたとき、人はためらいがちだ。

バンジージャンプをいつまでたっても飛べないのは想像力が豊かな証拠である。しかし往々にして落ちた後のことを考えるよりも一歩踏み出すことの方が大切な時は多い。やけっぱちも幸せをつかむ手段である。

書いていて思い出したが、何かの映画で忘れることができない辛さを語るロボットがいた。知っている人は教えてほしい。

向き合えば2.0

いろいろなもののバージョンが新しくなっている。web2.0、お金2.0、動画2.0(明石ガクトさん好きです)、視力2.0(欲しい)、ダイハード4.0(ジャックバウアー)。

テクノロジーや価値観の変化を受けて、今までの概念がアップデートされている。〇〇2.0というキャッチーな名詞として流行りを見せたが、もともとはソフトウェアのバージョンを示す数字で、新世代のものをわかりやすく表す方法である。

PCやスマホで、プログラムの更新画面を見ているとき、新旧のプログラムの間でこんな会話をしているのではと想像している。
 
過去のプログラム「いや俺はこういうつもりでやってきたんだけど・・・」
更新プログラム「わかるよ。俺もそう思ってたけど、時代が変わったんだ。」 
過去「そういえば最近体が言うことを聞かなくて」
更新「引退しな、おっさん」

1.0から2.0になるためには新旧で対話が必要である。2.0には1.0との違いを明示する責任がある。自然、2.0は旧モデルと向き合わなければならない。向き合うためには過去を知り尽くしている必要がある。

人の成長も、自分自身と向き合うことから始まる。「人の成長は、未熟な過去に打ち勝つことだ」と荒木飛呂彦は言った。向き合った時点で過去と違う自分を手に入れている。あとは打ち勝つことができるかだ。

ジャーナリズムという病

ジャーナリズムの語源はジャーナル(日刊、刊行物)とイズム(主義、主張)である。誤解されがちだが「巨悪に立ち向かう新聞記者」といういわゆるジャーナリストのイメージは一側面に過ぎない。現在を細かく取材し、過去と関連付けて解説するのがジャーナリズムである。

大学で現代ジャーナリズム論という授業を受けて知った。いわくジャーナリズムはTの字で、横棒と縦棒が交わる部分である。横棒が現在を表し、縦棒が過去を表す。現在と過去がつながった点を世の中に知らしめるのが本来の姿だと先生は言った。なので歴史を知らない記者に記事は書けない。

ジャーナリズムの名のもとにとか、ジャーナリズムに突き動かされたという言葉を私は信用しない。本当なら日本語で言ってみてほしい。おそらく正義感とか批評精神という答えが返ってくるがそれは間違いである。

悪を正すとか権力を監視するとかの類はジャーナリズムの本質ではない。山本夏彦は、新聞は自らが決して実行しない正義を説いて好評を博したと言った。夏彦の時代は少数派だったが新聞への風当たりは最近強くなった。けれどもジャーナリズムという病は不治である。