R指定VS李白 漢詩と日本語ラップ

にわかに日本語ラップが流行っている。いや本当は前から流行っているのかもしれないがここのところ目に触れる機会が増えたように感じる。テレビで番組が組まれたりカラオケでランキングに登場しだしたりしたのはつい最近のことではないだろうか。

ラップの成り立ちは知らない。ヒップホップとかストリートは全然詳しくない。でも日本語ラップは好きだ。エネルギーがつまっている。短い小節にリズムよく、ライムで自らを制限して言葉を並べる。そこに表現の妙がある。葛藤がある。

話が飛ぶが、日本語ラップ漢詩と共通するものがある。漢詩なんて高校で読んだひとつふたつに毛がはえたぐらいの知識しかないが、日本語ラップも同じくらいの知識だからこの際気にしない。漢詩は絶句とか律詩とか形式があるが、要はとんでもなく縛りが強い詩の表現だ。しかも短い。そこに込められた思いの強さは、そう表現する以外ない、というぐらい研ぎ澄まされている。

彫刻で有名な運慶は腕前を誉められて「私が考えて彫っているわけではない。中にあるものを掘り出すのだ。だから間違うわけはない」と言ったそうだし、バイト先の寿司職人は「俺は魚を切る前に、全部どんな刺身になるかわかるんだ。だから最後のひときれになっても最初と同じように包丁を入れられるんだ」と言っていた。運慶と寿司職人は同じことを言っていると思う。

日本語ラップも、そのビートにはこの言葉以外はあてはまらない、このビートアプローチ以外あり得ないという表現がある。その表現を人は芸術とか文学とかいう。漢詩も決められた漢字のならびの中に、ここしかないという漢字を持ってくる。彼らは直感で言葉やリズムを選択する。センスといってもいいかもしれない。表現の縛りに直面した瞬間、その縛りのなかで最高の言葉を見つける。もちろんそこには葛藤が存在する。

漢詩がさらに面白いのは、もともと中国読み(音読み)で発音するものを、日本人が訓読みにして日本語として理解できるものにしてしまったことだ。中国の人からすると漢詩2.0みたいな感じだ。これによって、音読するときに日本人が理解できるリズムが生まれた。

日本人は明治まで漢詩を読んで書くことができた。大正から書ける人はいなくなった。夏目漱石が最後だという人もいる。それを聞いて寂しくなったが、日本語ラップは案外漢詩と近いと思っている。漢詩を学んだ日本人は、ラップも楽しめると最近一人で楽しくしている。