紙がくれるもの

紙の本を買うか電子図書を買うかという議論はいまだ決着しない。新聞と雑誌、そして紙幣も同じである。まだまだ紙は情報を伝える媒体として求められている。

媒体として以外の紙はなおさら不可欠である。ティッシュ、トイレットペーパー、紙おむつ、段ボール箱。紙を豊富に使える生活というのは、人の文化レベルをあげてくれる。リサイクルの技術がそれを支えていることは言をまたない。

媒体としての紙を見たとき、乱暴に扱えるかどうかがひとつの分かれ目である。破ってとっておけるか、メモや線を引けるか、折り曲げておけるか、気に入らないものはくしゃくしゃに丸めて投げられるか。意外とこの行動が重要である。没になった原稿を、いちいちタブレットを二つ折りにしていたのではわりにあわない。陶芸家が失敗作を放り投げるのは自らへの戒めだと私はみている。

紙は想像力をくれる。情報を載せた紙を実際に動かすことが、思ったよりも脳や心に影響を与える。福沢諭吉の書かれた紙(早い話が10000 円札)がたくさん積まれているのを見ると、素直にうらやましい。スマホひとつの画面では想像力に限界がある。クレジットカードや電子マネーを使いすぎるのはこのためだ。電子決済を進めるにはイマジネーションを鍛えなくてはならない。

もともと金だったものを紙に落としこんだのは間違いなく発明である。なら紙を電子媒体に落としこむのも発明に違いない。ただ、その革命はまだ来ていないようである。

情報社会と私たちを繋ぐのは、まだ紙だ。私たちの想像力が発達するか、スマホの画面がまるで現実世界のように拡張されない限り、紙は私たちに想像力をくれる。

自由化ばんざい

農業、漁業の自由化と聞いて手放しに喜ぶのは国民の悪癖である。水道法の類もこの手の話である。

法律で保護された市場、業界を称賛するわけではない。長年経っているならなおさらである。人の出入りがない家がすぐ腐るように、市場もまた同じである。

かと言って70年も放って置かれた法律が機能しているはずがない。機能していたらそれは奇跡かそう見えているだけだ。しかし自ら放って置いたものを持ち出してきて見てください、こんなにホコリが積もっていますというのは怠慢を見せびらかしているようなものではないか。

言い方にも問題がある。自由化ではなく再構築と呼ぶべきだ。ありていに言えば自由化とは今までの市場の構造を破壊することである。その後に新しく創り上げる。それを破壊と創造と呼ぶのでは子供っぽいから再構築でいい。

自由と聞いてけしからんと思う国民はいない。それいいことに自由化といって問題を解決した気にさせるのは不誠実である。一旦壊すんだときちんと伝える必要がある。

壊すからには犠牲が伴う。その犠牲を乗り越えて新たな世界をつくらなければならない。壊す側はさぞかし気が重かろう。壊される側はそれ以上に憂鬱だ。

自由の御旗を掲げて彼らはやってくる。新聞も面白がってそれで飯を食う。そしてそれを望むのは国民である。果たして新聞は自由化を取り上げる。

尾崎豊は関税を撤廃したくてバイクを盗んだわけではない。市場の自由化と個人の自由は違う。何用あって自由を求めるのか、よく考えたほうがいい。再構築と聞けば、いくばくか覚悟が固まるだろう。

ソフトバンクあれば通信障害あり

ソフトバンクの通信障害で大規模な混乱が起きた。たまたま関係なく過ごせた人はいいが当事者になった人にとっては大問題である。障害が起きなければ怒られる必要のなかった人がどこかでしこたま怒鳴られているかもしれない。あるいは悲しみに暮れているかもしれない。

ソフトバンクの回線を頼みにした様々なサービスで不具合が発生した。利用しているカーシェアリングサービスはスマホの通信を使って車の鍵を開け閉めするが、これができなくなって申し訳ないと運営会社からメールが来た。借りたいのに鍵が開かない、返したいのに鍵が閉まらない。「つながらない」という感情は人類が新たに手に入れたストレスの筆頭になった。

「機械あれば機事あり。機事あれば必ず機心あり」とは古人の言葉である。便利な機械を使えば楽になる。楽を求める心が出てくると人は道を誤ってしまう、といって頑なに便利な発明を使おうとしない老人の説話である。

老人は正しい。しかし私達は過去に戻ることはできない。アメリカが銃のない社会に戻れないように、私達はスマートフォンのない社会には戻れないのである。私達は自らの発明と付き合って行く必要がある。

AI恐怖症とでも言うべき議論がある。いつか人知を超えた機械が人間を脅かすのではないかという心理によるものだ。それこそが機心である。AI恐怖症は、AIを使って楽をしようとする心の延長線上にある。

老人は自分が発明に頼ってしまうことを知っていた。自らの力を自覚してるが故に拒んだのである。

私達はソフトバンクを拒むことはできない。ソフトバンクのない時代に戻ることもできない。八方ふさがったのなら一緒に生きていくしかない。

言いたいことは3つまで

よく、知らないアーティストの歌を聞くとどれも同じような曲に聞こえることがある。好きになって心をこめて聞けばそれぞれの曲のよさがわかるというが、多感な思春期ならまだしも感性が鈍くなった上にすぐ時間がないと言い出す中年には無理な話である。

スピーチのコツで、要点は3つにまとめろというのがある。聞き手はそれ以上覚えることができないので3つがちょうどいい。本当は1つでも2つでもいいのだが2つ以下だと今度は「本当によく考えたのか、他にもあるだろう」と言い出す。

では話し手に伝えたいことはいくつあるのかといえば、多くて3つである。3つあればいいほうで、本当は2つか1つしかない。1つもないときもある。4つあるときの4つ目は余計か嘘っぱちである。

曲が同じように聞こえるのは表現に工夫が足りないか、言いたいことが多すぎるかどっちかだ。言いたいことがまとまらないアーティストの曲は自然と似たようなものになる。言いたいことは同じでいい。それをどう表現するかに悩むべきである。スピーチも同じで、表現の仕方を工夫しなければ伝わらない。研ぎ澄まされた言葉が表現されてはじめて人の心に響く。

言いたいことが4つも5つもあったらいつまでたっても伝わらない。多くて3つである。

なんて器用なの!

中学生のとき、同級生の女の子に言われたことがある。家庭科の授業中ではなかったので手先を誉めてくれたわけではなく、人間関係や立ち振舞いに関しての言葉だと思う。皮肉のこもったネガティブな言い方だった。

言われるまでそんなつもりはなかったが世渡りがうまく見えたらしい。8人兄弟のなかで育てば誰でもそうなる。腕っぷしで勝てなければ口八丁で乗りきるしかない。

それを器用だと言われたのははじめてで、「落ち着いてほしい。君が不器用なだけだ」と言いたくなったが彼女は女子のなかでまずまずの権力者だったので私はひれ伏した。面と向かって言われたことがショックだったのもある。

それから女性と話すのが怖くなった時期がある。コミュニケーションとは奥深いもので口先だけではほんとうの付き合いはできないのだと知った。いまも女性とうまく付き合えるわけではないが、中学生のときよりはましになった。

いまなら彼女と落ち着いて話し合えるかもしれない。

地上の星だらけ

仕事柄、地方を訪ねることが多い。講演とかで行くわけではないから、会うのは地元で暮らし、その土地に様々な感情を持ち、毎日を過ごすいわゆる普通の人たちだ。

そのなかには本当に素朴で堅実で実直に、かけがえのない日々を送る人たちがいる。彼らこそ地上の星と呼ぶにふさわしい。

残念なことに地上の星は周りからの評価が高いとは限らない。ある意味でその実直さが周りから疎ましく思われ敬遠されることがある。周りのことを思っての行動が受け入れられないことほど悲しいことはない。

間違いなく中央でもやっていける人が、やむを得ない理由があって地方で暮らしている様をいくつも見てきた。なにかをあきらめて地域やコミュニティを守ることを決めた人の目には言い表せない深みがある。

地上にある星を誰も覚えていないと言ったのは中島みゆきである。地上の星が散らばるこの国を見つめるのは燕ではなく地に足をつけて歩く人間であるべきだ。文字通り、地上には山ほど星がいる。彼らを見過ごす人生ほどつまらないものはない。

コミュニティに飛び込む

オンラインサロンやファンクラブなどのコミュニティサービスが流行っている。インターネットをうまく使いこなし、ひとりでは到達できない地点を人々は目指し始めている。同時に強烈なアイデンティティを欲している。

アイデンティティの和訳は「自分は何者であるか」だ。これを求めて人はあちこち迷う。ともすると一生かかる場合もある。よくインドに行く。見つけたと思ってもすぐにまたわからなくなる。

探すのはとても大切なことだが、厄介なことに1人でいるときは自分の悪いところばかり目に付く。ひとは成長するためにそのようにできているものらしい。だから些細な変化も褒めてくれる親が、師匠が、パートナーが必要なのである。

他者と接したとき、ひとははじめて自分を理解する。良いところもそうでないところもわかる。新しいコミュニティに所属したときそれはもっとも顕著になる。学校に入学したとき、会社に入ったとき、結婚したとき、それぞれのタイミングで新しい自分と出会う。ひとがみんな違うようにできているのはそのためだ。金子みすゞが『私と小鳥と鈴と』の中でいった「みんな違ってみんないい」は、コミュニティの在り方と一緒に学ぶ必要がある。教科書の音読だけではおよそ伝わりきらない。

 所属するコミュニティは多い方がいいが人間が良好な関係を築ける人数には限界がある。いろいろ探してみるのがいい。居心地のいいところ、あえて悪いところを選んでみるのも手かもしれない。コミュニティサービスはそれを可能にする。

うまくなると次第に自分で自分自身を褒められるようになる。自分が何者かを理解し、与えられた役割を果たせるようになる。それでも自分の背中を自分で見ることはできない。独立した人間にとってもコミュニティは大切なのである。

自分の中に答えはない。答えは他者の中にある。