自由化ばんざい

農業、漁業の自由化と聞いて手放しに喜ぶのは国民の悪癖である。水道法の類もこの手の話である。

法律で保護された市場、業界を称賛するわけではない。長年経っているならなおさらである。人の出入りがない家がすぐ腐るように、市場もまた同じである。

かと言って70年も放って置かれた法律が機能しているはずがない。機能していたらそれは奇跡かそう見えているだけだ。しかし自ら放って置いたものを持ち出してきて見てください、こんなにホコリが積もっていますというのは怠慢を見せびらかしているようなものではないか。

言い方にも問題がある。自由化ではなく再構築と呼ぶべきだ。ありていに言えば自由化とは今までの市場の構造を破壊することである。その後に新しく創り上げる。それを破壊と創造と呼ぶのでは子供っぽいから再構築でいい。

自由と聞いてけしからんと思う国民はいない。それいいことに自由化といって問題を解決した気にさせるのは不誠実である。一旦壊すんだときちんと伝える必要がある。

壊すからには犠牲が伴う。その犠牲を乗り越えて新たな世界をつくらなければならない。壊す側はさぞかし気が重かろう。壊される側はそれ以上に憂鬱だ。

自由の御旗を掲げて彼らはやってくる。新聞も面白がってそれで飯を食う。そしてそれを望むのは国民である。果たして新聞は自由化を取り上げる。

尾崎豊は関税を撤廃したくてバイクを盗んだわけではない。市場の自由化と個人の自由は違う。何用あって自由を求めるのか、よく考えたほうがいい。再構築と聞けば、いくばくか覚悟が固まるだろう。